安曇幹線の歴史 【写真3枚が不明】

 安曇幹線の歴史について調べてみました。着工から15年の年月をかけた大工事だったのです。驚きました。

安曇幹線の完成

 昭和44年、北アルプス梓湖(奈川渡ダム)の安曇発電所から、埼玉県鶴ヶ島市の新所沢開閉所まで、168キロを結ぶ安曇幹線が完成する。27万5000ボルト、1回線の送電路である。
 信濃の大規模揚水発電所と首都圏の27万5000ボルト外輪線を結ぶ幹線として作られた。


  昭和42(1967)年 安曇幹線建設工事開始
  昭和44(1969)年 奈川渡ダム竣工
          安曇発電所・水殿発電所・安曇幹線運用開始


昭和44(1969)年の安曇幹線


 ゆくゆくは50万ボルト送電路として活用する予定だったのだろうが、この段階では50万ボルトの送電系統は出来ていない。日本初の50万ボルト送電路、房総線が出来たのは、安曇幹線に先立つ昭和41(1966)年だが、始めての50万ボルト運用が房総変電所〜新古河変電所間で開始されたのは昭和48(1973)年のことだ。

50万ボルト送電網の整備

 安曇幹線が出来て後、首都圏の50万ボルト環状系統が次々と整備される。安曇幹線に関連するものでは以下のような進展状況だ。

昭和45(1970)年 新古河線(新所沢開閉所〜新古河開閉所)建設 275KV運用

昭和48(1973)年 房総線50万ボルト運用開始(房総変電所〜新古河開閉所)

昭和50(1975)年 新古河線(新所沢開閉所〜新古河開閉所)500KVに昇圧
終点の新所沢開閉所、新所沢変電所となり500KVに昇圧*1

昭和52(1977)年 新信濃変電所竣工

昭和53(1978)年 新岡部線(新秩父栃木線 新秩父開閉所〜新岡部変電所)完成

昭和54(1979)年 新所沢線(新所沢変電所〜新多摩変電所)完成
新高瀬川発電所4号機運転開始

昭和55(1980)年 新秩父線(新多摩変電所〜新秩父開閉所)完成*2


昭和60(1985)年の東京電力50万ボルト送電系統
(出典:『関東の電気事業と東京電力』)
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 終点の新所沢開閉所は変電所となり、房総線、新古河線、新所沢線は連携し、50万ボルト環状系統の内輪が形成される。
 新岡部線が新秩父開閉所まで完成し、新秩父線も完成、50万ボルト外輪系統も整備が進む。
 発電側の状況も整ってくる。新信濃変電所が完成し、安曇幹線に電気を供給するもうひとつの発電所新高瀬川発電所が稼働を開始したのだ。



安曇幹線2号線の完成

 昭和56(1981)年、安曇幹線が出来てから12年後、安曇幹線ルートの南側に2ルート目の安曇幹線2号線が完成する。こう長約113km、えぼし型鉄塔基数258基の送電路だ。安曇幹線2号線は最初から50万ボルト運転が行われた。


 この年の安曇幹線を取り巻く系統の整備は以下のようなものだ。

昭和56(1981)年 新榛名線(新榛名変電所から新秩父開閉所)完成。
秩父開閉所 運用開始
信濃変電所 50万ボルト昇圧
新高瀬川発電所1、2号機、次いで3号機の運転開始。

 かくして安曇幹線は50万ボルト外輪系統に接続する。それが安曇幹線2号線だ。
 しかしこの段階ではもともとの安曇幹線は27万5千ボルトのまま新所沢変電所まで行っていたようである。

安曇幹線の分断

 安曇幹線2号線の完成から1年後、昭和57(1982)年に、もともとの安曇幹線は500KVに昇圧される。名称も安曇幹線1号線と変わる。同時に1号線の終着点は2号線と同じ新秩父開閉所に変更された。


 その結果、新秩父開閉所〜新所沢変電所間の37キロ、282号鉄塔から391号鉄塔まで、鉄塔数110基は「安曇幹線」という名前のまま休眠することになる。完成から10年という短い時代を担っただけで休眠した数奇な運命をたどったのが旧・安曇幹線なのだ。


 これが安曇幹線が安曇幹線1号線、2号線、安曇幹線の三つになった経緯である。


昭和57年の安曇幹線

安曇幹線の除去 西上武幹線の建設

 なお、遊休区間となった安曇幹線は2009年末より、西上武幹線建設のために除去作業が開始され、新所沢変電所(391号)から鎌北湖の北(365号)まで27基の除去が完了しているのを確認している。


除去作業中の安曇幹線384号

鉄塔数・鉄塔番号・ルート変更

 安曇幹線は昭和52(1977)年に出発点を安曇幹線2号線変電所から新信濃変電所に変更している。切り離されたのは安曇発電所〜新信濃変電所間約18km、鉄塔45基である。
 このため安曇幹線の鉄塔番号も振り直されたと考えられるが、その時期は安曇幹線1号線完成時ではと思われる。遊休路線となった安曇幹線は建設当時の鉄塔数を数えていると思われるからである。*3
 また原則的に、1号線は旧安曇幹線の増強で鉄塔は流用、2号線は1号線の南側に新たに作られた路線である。しかし一部では2号線が1号線の鉄塔を流用し、1号線用に新たな鉄塔を建てた区間があるという。



*1 新所沢開閉所が変電所に変わった年代については『架空送電線の話』では昭和51年(1976年)となっている。ここでは『関東の電気事業と東京電力 資料編』(東京電力 2002)によった。
*2 新秩父線の開通は手元の資料では分からなかったが、鉄塔札に昭和55年とある。
*3 新秩父開閉所の山上に安曇幹線と安曇幹線1号線237号と旧・安曇幹線282号が並んで建っているが、番号は45号違いになっている。

付録・和田峠山麓の実例

 上記の鉄塔数・番号・ルートの変更について実際の例を確認している。


古い巡視路標識 R

 安曇幹線の和田峠東側山麓を歩いていて、古い巡視路標識を発見した。(http://d.hatena.ne.jp/sarumaruhideki/20090208
 この巡視路標識は安曇幹線1号線85号の手前、2号線は96号の手前に立っていた。標識には「安曇幹線 128-131」と書いてある。1号線でも2号線でもない「安曇幹線」なので、2号線が出来る前の標識だろう。でも次の1号線は85号。43号も違っている。
 この差は安曇幹線の出発点の変更によるものに違いないが、45本撤去なら次の1号線の番号は83号でなくてはならない。2本多いのはこの手前で建て替えなどがあったのだろうか。


 
安曇幹線1号線85号  安曇幹線2号線96号


 前記の古い巡視路標識前後の鉄塔の鉄塔札は以下である。

安曇幹線2号線96 昭44.4 33m
安曇幹線1号線85 昭55.9 59m

安曇幹線2号線95 昭44.4 69m
安曇幹線1号線84 昭55.9 57m


1号線85号のプレハブ基礎鋼材


 1号線85号84号は高く、新しい。基礎は座金があらかじめ溶接されているプレハブ基礎。これは2号線の鉄塔の特色だ。
 2号線96、95号の「昭和44年4月」は通常、1号線に付けられている年月だ。


 これは2号線の旧鉄塔流用と1号線の新鉄塔建設によるものだろう。旧鉄塔流用は1号線84号、2号線95号からで、1号線83号、2号線94号から若番側は新旧の入れ替えはないようだ。残念ながら、1号線85号、2号線96号より老番はまだ未調査だ。


 ところで1号線の「昭和55年9月」という年月は2号線鉄塔札に通常書かれる「昭和56年5月」とは異なっており、8ヶ月ほど前の月になる。
 2号線成立の8ヶ月前に新鉄塔が建設され、1号線として運用開始されたということだろう。


2号線95号のプレハブ基礎鋼材
 なお、安曇幹線2号線95号は鉄塔札には「昭44.4」と書いてあるが、安曇幹線原型ではなく、その後建て替えられたものと思われる。基礎のコンクリートも新しいし、基礎からは、座金が溶接された新しいタイプの鋼材が出ている。高さも60メートルと他と比べ高い。スキー場のリフトを横切る手前の鉄塔ということで建て替えられたものと思う。



参考

 安曇幹線の歴史については『架空送電線の話』の以下のページに詳しい。
  http://www.justmystage.com/home/overheadtml/azumikansen.htm

 また新秩父開閉所については貴重な思い出話が以下に載っている。
『ホームページへの挑戦ー月記』
http://www5f.biglobe.ne.jp/~takatoshi/135.html

 その他『送電鉄塔見聞録』など多くのWebサイトを参考にさせていただいた。