京浜工業地帯を作った鉄塔たち

大師線18号

5月4日の日記の続き)
 川の眺めを満喫して大師線に戻る。東京電力大師線京浜急行大師線の上を通っていく。送電路も鉄道も「大師線」。紛らわしいが仕方ない。


 鉄道のほうの大師線ができたのは明治31年京浜急行の最初の路線だ。送電路の大師線が出来たのは大正7年らしい。現在は東京電力に移管されているがかつては京急の送電路だった。当時の鉄道会社は自前で電気を作ることが多かったようだ。
 京急のWebによれば、この送電路は京浜工業地帯発祥のひとつの要因だという。(http://www.keikyu.co.jp/corporate/history/st/st-2.html

 六郷川河畔に火力発電所を建設して、自給自足で電車を走らせていた京浜電気鉄道は、余剰電力の供給も行った。この電力を頼りに川崎周辺には次第に工場が進出してくるようになり、京浜工業地帯の基礎が形づくられるようになっていった。


大師線10号 京浜工業地帯を作った送電路とは歴史ある鉄塔の中でも特筆すべき路線じゃぁないか。


 送電路ができたのは大正7年だが、現在の門型鉄塔は昭和17年のものらしい。それでもとても古い。ペンキのムラや錆に歴史が感じられる。
 鉄塔標札を見る。「東京電力 大師線25 昭17.4 22m」。東京電力の鉄塔票以外に京急の整理番号だろうか、同じような短冊形の札が貼ってある。「大東17 T7.5」。京急はルートが開設された時の年号を、東電は鉄塔が作られた時の年号を採用しているようだ。


大師線26号大師線26号 駅構内に立つ鉄塔は下部を折り曲げ、幅を広げている。面白い奴だ。中腰のようでもあり四股を踏んでいるようでもある。たくさんのボルトで止められた屈曲部分。これも時代を感じさせるアイテムだ。


 大師変電所をスタートした大師線は東門前、川崎大師、鈴木町駅と続き、次の港町駅手前で右に折れ多摩川へ向う。
 最初は大師線2回線に味の素門前線1回線を併架して3回線で進む。鈴木町手前で味の素門前線は味の素の工場の中へ。ここからは2回線になる。
 大工場の間を進む大師線。中々線路に近寄れない。やっと見つけた曲がり角。京急のガードをくぐると多摩川の河原に出た。


 大師線はと見るとすぐ上流で多摩川を渡っていた。中州には頭の平らな風変わり鉄塔(→「リベンジ箱入り」)。その鉄塔に送電線を渡す川崎側最後の鉄塔は4号だ。
 工場の敷地内なので近寄れない。双眼鏡で鉄塔票札を確認した。何と大正7年と書いてある。
 尖がり帽子が似合いそうだが帽子はどこかに飛ばされてない。架空地線もない。腕金は短長短とオフセット付き。たしかに古そうな鉄塔だが原型だろうか。
大師線4号


 大師線。歴史を担った鉄塔群も京急の地下化によって近い将来消えて行くだろう。消えていく歴史の名残を味わえた私は幸せものだ。


 広大な味の素の工場と多摩川の間の河原。車が入りこめない地帯を下流に向かって歩いた。遠くに萩中線、南大田線が見える。派手なオレンジ色と白のストライブ。彼らは若さに溢れている。その派手な衣装の後ろを連休の旅人を満載した飛行機が急角度で空を目指していた。



* 大師線については'てんしゅう'さんのページがとても充実している。(Comunication Labo 内の「送電線探索」http://www007.upp.so-net.ne.jp/tensyu/infrastructure.htm)
* 鉄構の表示には大正7年と書かれているが京浜急行のWebによると「1920(大正9年)10.1 線路上に特別高圧送電線架設」とある。2年ほど食い違いがある。ここでは鉄塔観察界の通説を採った。(http://www.keikyu.co.jp/corporate/history/his/his-2.html)