浅草発電所

蔵前変電所旧建屋

2月12日の日記の続き


 厩橋から蔵前橋を望む。右岸に大きな建物。望遠鏡で見ると変電施設らしきものが川沿いの露天に建っている。あれが蔵前変電所に違いない。


 近づくと蔵前変電所の古い建屋はモルタルで外壁を葺いたとても歴史を感じさせる建物だ。入り口脇の外壁に住居表示のプレートとともに古い鑑札が数枚打ちつけられている。もう文字は判読できない。
 建物からは表札は取り除かれ壁には看板の名残しかない。背の高い玄関も一面シャッターが下り、今は使われていない様子だ。


 「蔵前変電所」のプレートは離れた入り口に付けられていた。その入り口から道をへだてた駐車場の中に「東京工業大学発祥の地」という案内板があった。同大学の前身、東京高等工業学校の記念碑だ。案内板に明治38年当時の地図が書かれている。これはと思って変電所の辺りを探すと「東京電燈浅草変電所」という記述。これはたいへんなことになった。


 東京電燈浅草発電所といえば日本の電力史に必ず登場する発電所。電力の黎明期から成長期への大きな一歩を印した発電所だ。
 当時は街中に分散したごく小規模な発電機、それが単独運転をして各区域へ配電をしていた。

…明治二十五年上期に至り従來の配電方式を一變することに決定した、即ち淺草區南元町に地を卜して市内に散在せる發電所を此處に集中し、新たに高壓交流式の大發電所を建設し、従來の發電所を廢して變電所(當時配電所と稱した)に改め集中發電所より送電して來た電力を變電所より各區域内に配電せんとするものであった。
 當時この集中計畫は我國における發電方式上一新生面を開拓するものとして多大の注意を喚起した。
(東京電燈<現在の東京電力>の「開業五十年史」<昭和11年発行>・一部旧字を新字に置き換えている)

 たしかにこの計画が画期的なものであったのは当時の東京電燈の資本金83万円余りを増資によって100万円(後に200万円まで拡大)にしなければならなかったこと、本社をこの発電所内に置いた(明治35年まで)こと、さらに浅草発電所に導入されたドイツの発電機の仕様が元で東日本の交流が50Hzになったことなどでも明らかだろう。
 浅草発電所が稼働したのは明治29年日清戦争が終わってまもなくの頃。戦間期の大きな経済発展がもうそこまでやって来ている頃だった。


 現在のように大きな発電所から各区域の変電所へ送電、そこから配電というシステムになった最初がこの浅草発電所だ。だとすれば送電線ファンにとっては原点ではないか。
 蔵前変電所の名前にはちょっと惹かれていたし、浅草発電所の名前は文字の上では知っていた。でも蔵前と浅草の連携ができなかった。よく考えてみれば今でこそ違う街の扱いを受けているが、かつてはこの一帯が浅草区。浅草橋だってもっと下流にある。


 建物の裏手に回った。変電所の脇の路地には木造の民家。休日のせいもあってひっそりと眠っているような一画だ。
 古い建物に接して新しい巨大な建物が建っている。窓がほとんどない巨大なコンクリートの箱。これが今の変電所の建屋なのだろう。味気ないことだ。建物は味気ないが川沿いの露天に変電施設が並んでいるのはうれしい。
 送電の原点にふさわしい大きな電力基点がこんな都心に隠れていたとは。大きな機器から飛び出している大きな緑色碍子。それを透かして浅草は吾妻橋にあるビール会社の大きな黄色いモニュメントが見えた。やっぱりここは浅草だ。
(続く)